人間の意識は神の意識の一部

  • 2019.10.31 Thursday
  • 00:09

 


   あなたが悟りに達していないのはなぜかというと、自分の中に一貫性がないからです。あなたはこれを生み出したかと思うと、次にはあれを生み出すという具合です。自分は神とは別個の意識だと信じながら、自分の世界を創造したり、自分の世界を反映させたりすることは、確かに面白いことです。しかもそれがとてもうまく成功しているので、世界は人間の創造物やドラマで溢れ返っています。
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   あなたが悟りの境地に達していないのは、本当はすでに悟っているのに、そのことに気づかないからです。人がそうすることを選ぶのは、何も邪悪な動機があるからではなく、神と分離した物質界で、自分自身が創造しているものに絶えず魅了されているからに過ぎません。
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   物質界で創造されたものは、一見すると永続的な幸せを約束してくれるかのようです。ところがよく注意してみると、そうではないことがわかります。増えたり減ったりするものを創り出すことによって、永続的な何かを見つけることはできません。
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   多くの人々が、いわゆる「愛」そのものになろうと努力しています。つまり、出来るだけ多くの瞬間を心を開いて、自分も他人も傷つけないで調和の中で生きていく、そういう意識で自分を満たそうとしています。そして、自分が触れたり見たり、考えたりすることのすべてに対して、自分の中の最も神に近い部分や純粋なものだけが流れ出るよう望んでいます。
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   すべての人が同じことを望んでいるので、ある意識レベルでは、あなた方はみな自分が何を求めているのかを知っています。罪や罪悪感などというものはまったく存在しないということ、そして自分は神の一部であり、愛と叡智に満ちた純粋な部分を表しているということを、人々は意識的、無意識的にしろ疑いなく確信したいと思っています。
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   ところが気をつけて観察するとわかるのですが、人は毎日この努力に失敗しています。ですが誤解しないでほしいのですが、これは嘆いたりするようなことではありません。むしろ、これは当然の事と言えます。
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   なぜなら、これまでのこうしたやり方が失敗するのは当たり前だと悟る瞬間があなたに訪れるまで、自分を幸せで賢い良い人間だと感じるためには、外の世界にある何かを手に入れなくてはならないと信じ続けるはずだからです。そしてその「何か」を人は探し続けるでしょう。
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   自分という絶対的純真さ無垢さを感じるためには、自分が未だかつて誰に対しても「罪を犯した」ことなどないこと、そして誰も自分に対して「罪を犯した」ことなどないこと、最も深い意味においては、いまだかつてどんな過ちも起きたことはないのだ、ということをを知らなければなりません。
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   心の底からこの純真さを感じたいと決心すると、その瞬間からあなたは「外界」に注意を向けなくなります。目の前に誰がいようとも、何が起きていようと(たとえそれが愛に満ちたもの、生命を脅かすものであれ)、相手は自分と同じものを求めているのだということを理解できるようになります。
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   そして相手の人間も、自分自身の絶対的な純真さの反映をあなたに求め、あなたを通してそれを知りたいと思っています。自分は今まで一度も間違ったことをしたことがないのだ、ということを悟りたいと人々は思っているのです。
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   あなたはどんな人になりたいのでしょうか? しばらく座って、この質問を心の中で反芻してください。そうする理由は、静かに座っていると心が静まり、自分自身の中で、そして自分の人生の中で常に感じていたいものは何なのかが明確になってくるからです。自分の幸不幸はただ一つのことにかかっている、つまり自分が神の一部であると感じられるかどうかということです。
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   そのことを思い出す機会を自分に与えてください。それに気づけば、「神意識」と呼ばれる、あの非常にシンプルで基本的なエネルギー域の中に入ることができます。それは決して揺らぐことのない変わらぬ愛、心の平安、輝かしい喜びの感覚であり、完全なる覚醒です。これこそ、すべての人が求めているものなのです。
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   神との分離によりこの次元に降下した人間は、創造の過程の途中で、肉体そのものに創造する力があると誤って信じてしまいました。この誤解に基づいて、病気とは体の細胞が勝手に荒れ狂って作り上げるものだと考えるに至りました。さらに病気を創っている細胞を治す方法は当然、肉体レベルにしかないと考えています。
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   そう信じているのなら肉体レベルで対処して、できるだけのことをして病気を治そうとするでしょう。ですが、肉体レベルには本当の治癒はありません。体が病気を創ったわけではないので、身体は病気を治すことはできません。そうすると実際にはどうなっているのでしょうか。
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   人間は、体が勝手に自分が望まないものを創り出すことができると信じて恐れており、体が創ったものは自分とは無関係だと思っています。それは肉体が自分に何の相談もなしに、有害なものを生み出すことができるということですが、これは何と恐ろしい考えでしょうか。

 

   人間が恐れているのは、自分の一部が反乱を起こすかもしれないということです。それはまったくコントロールが効かないという感じを与えます。まるで手綱も何もなしに暴れ馬に乗っているようなものです。
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   解決法は単純です。簡単だとは言いませんが単純です。まず、自分の心があなたの肉体に絶えずメッセージを送り続けており、肉体はあなたというボスからのメッセージに従って何かを生み出している、ということを理解しなければなりません。ですから最初の「治癒」は当然、肉体のレベルでは起きません。
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   本当の治癒はまず精神のレベルで起きます。ですからそのレベルで自分の「内なる恐れ」に直面し、自分の創造力を肉体に向けて使用しなければなりません。そうすると肉体は、あなたからの新しい指令に従って創造を始めます。
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   ここで知ってほしいことは、、現在の人生がどのようなものであれ、今まで心を集中してきた思考の結果が、あなたの人生を現在のようなものにしているのだということです。あなたは自分の思考で自分の人生を形づくってきました。つまり肉体が反逆して病気を創ったのではなく、その前に、あなたの心が反逆したのです。
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   人は誰もが、自分の制約に満ちた信念体系に基づいて人生を創造しています。私のところに相談に来る人々に対して、自分が生み出しているものに責任を持ってくださいと私は言います。すると人々は、「いえ、とんでもないです。自分で創造なんてしたくないし、神がすべて創造してくれることを望みます」と言います。それはどういうことですか、と聞くと、「私は神が創造されるに任せて、それでいいです」という返事が返ってきます。
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   ところが自分には創造するつもりがなくとも、意識というのは強力なので、たとえ明確な意識を持っていないならいないで、その人の無意識がその代わりに創造することになります。そして当然、エゴ(自我)に基づいた無意識は神ではないので、注意していないなら、知らぬ間に溜め込んだ無意識が創造することになります。
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   マスターたちは誰でも「今という瞬間に生きる」ようにと言いますが、それはなぜでしょうか? それは今この瞬間、瞬間にこそ、あなたの意識は創造の手綱を手にしており、反逆する無意識を優しく手なずけ、おとなしくさせることができるからです。今のこの瞬間にあなたがいない時、反逆者は勝手に暴れまわり、過去の思い出に生きたり、未来に空想を働かせたりして、エゴはあなたが望まないものを創り上げてしまいます。
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   何度でも言いますが、あなたの持つ素晴らしい精神という、意識のパワーについて真剣に考えてください。実は人は、自分の精神やそれが生み出したものを恐れています。自分には自らの持つ力をコントロールできないと信じているだけでなく、神とのつながりを失った世界を創り上げてしまったという思い込みがあります。この強力な意識という精神の力を使って、神が関心を持たないような世界、永久に神から分離した世界を創ってしまったと、人々は信じています。
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   そのようなものを、もっと生み出してしまうのではないかと思うなら当然、絶望感に襲われるのも無理もありません。ですが神が人間の意識による自由な創造を許すのは「一定の範囲」だけです。つまり、人間の中にある「神なるもの」が、ここから先に進んではいけないという制限を設けているのです。
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   あなたは自分の心が創造するものに責任を持つのが恐くて、自分の思考に注意を払わないようにしています。ところが意識せず、注意を払わないでいると、無意識の暗闇の部分を使って(自動的に)創造することになります。(それが自分の望まない現実として起きて来る可能性があるのです) 以上のことを心から理解すると、今という瞬間に生きることを選び、自分が本当に創造したいものは何なのかを、忘れないでおくことができます。
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 バーソロミューのメッセージ

いさぎよく「過去に別れを告げる」

  • 2019.10.29 Tuesday
  • 00:15

 

 

 

   「共感」するとは、一緒になって苦しむことではありません。というのは、「苦しむ」ことはあなたがしっかりと理解を「拒絶」しなければならないことだからです。それは共感についてのエゴ(自我)の解釈であり、苦しみが共有される特別な関係を形成するために常に利用されます。
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   共感する能力は、それを聖霊のやり方で利用させるならば、聖霊にとって極めて有用なものです。神の聖霊のやり方は非常に異なったものです。聖霊には苦しみは理解できません。そしてそれが理解不可能であることをあなたに教えさせようとします。聖霊があなたを通して関係を持つ時、それはあなたのエゴが別なエゴと関係を持つのではありません。
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   聖霊は一緒になって苦痛を体験することはしません。それは、苦痛の中に入っていき、その幻想を共有することによって苦痛を軽減しようとする惑わされた試みによって、苦痛の癒しが達成されることはないことを理解しているからです。
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   エゴが利用するものとしての「共感」が、破壊的であることのもっとも明らかな証拠は、それがある種の問題にだけ適用されるという事実にあります。しかもある種の人々におけるある種の問題にだけ、適用されるという事実にあります。
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   これらの問題や人々をエゴは選び出して一緒になります。そしてエゴは、自らを強化する目的以外のために一緒になることは決してありません。エゴは自分に理解できると考えるものに帰属意識を抱いた後に、自分自身を見て、自分自身と似ているものを分かち合うことによって自らを増大させようとします。
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   この行動を絶対に誤解してはなりません。エゴが共感するのは常に弱体化させるためであり、弱体化させるということは常に攻撃することです。あなたには共感するとはどういうことか解っていません。しかし次のことについては確信を持って良いでしょう。ただ静かに傍観して、あなたを通して聖霊に関わりを持たせるならば、あなたは力強さに共感して弱さではなく強さを勝ち取るということです。
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   あなたの役割は次のことを覚えておくことだけです。それはあなたが価値を置くものが、そうした関係の中から生まれることを望まないということです。あなた自身のやり方で関係を傷つけることも、癒すことも選択してはなりません。あなたは癒しが何であるかを知りません。
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   あなたが共感について学んだことのすべては過去から来ています。そして過去から来ているものには、あなたが分かち合いたいと思うものは何一つありません。つまり、過去から来ているものには、あなたが保持したいと思うものは何一つないからです。すでに過ぎ去った過去を実在的なものにし、そうすることによって過去を永続化するために共感を利用しないでください。
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   静かに道をあけ、あなたのために癒しが為されるままにしてください。どのような状況であれ、価値判断したいという誘惑に駆られても、価値判断することによって自分の反応を決定したいという誘惑に駆られても、心の中にはただ一つの思いだけを保ってください。そして、それを見失わず、心の焦点を次のことにだけに合わせてください。
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     『私は一人ではない。そして私は私の「客人」(聖霊)に過去を押し付けることはしない。私は「彼」を招待した。そして「彼」は今ここにいる。私には妨害しないこと以外に、何もする必要がない。』
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   真の共感は、共感が何であるかを知っている「聖霊」からやって来ます。謙虚さは次の意味においてのみ強さになります。すなわち、自分が知らないという事実を認識して受け入れることです。なぜなら自分の役割を完全に果たしたことがこれまでに一度もないならば、理解していないことに対してどう反応するべきか、その方法を知ることはできません。
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   理解していないことに反応する誘惑に駆られ、エゴが自らの栄光のために共感を意気揚々と利用することに屈してはなりません。弱さの勝利はあなたが兄弟に差し出したいものではありません。しかしながらあなたは、これ以外のいかなる勝利も認識しません。
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   これは知識ではありません。そして、これをもたらす共感の形態は非常に歪曲したものであるために、解放したいものを逆に幽閉してしまいます。それは救われていない者は救うことができないからです。
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マスター イエスのメッセージ

   


 

心という意識が持つ強力な創造力

  • 2019.10.27 Sunday
  • 00:07

 

 

   恐れるということは意図せずに起こるように思える。それはまるで自分には制御できない何かのようである。恐れがあるということは、あなたが肉体にまつわる想念を心のレベルにまで引き上げてしまったことを示す。あなたは自分の行なうことには責任があっても、自分の考えることには責任がないと信じているかもしれない。
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   真実を言えば、あなたは自分が考えることにこそ責任がある。なぜならあなたが選択権を行使できるのはこのレベルにおいてのみだからだ。あなたが行なうことは、あなたが考えることから生じる。あなたが恐れている時、それはいつでも、あなたが自分の心に誤った創造をさせて、私に導きを求めなかったという確かなしるしである。
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   あなたが恐れている時、あなたはすでに誤った選択をしている。それゆえに自分にその責任があると感じている。あなたは自分の行動ではなく心を変えなければならない。そしてそれはまさに意欲の問題である。あなたは心のレベル以外では導きを必要としない。訂正は変更が可能なレベルのみに属する。変更は症状のレベルでは何の意味もない。そこでは効力を持たない。
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   恐れの訂正こそ、まさしくあなたの責任である。恐れからの解放を求める時、あなたはそれが自分の責任ではないとほのめかしている。そうする代りに、その怖れをもたらした状況について助けを求めるべきである。これらの状況には常に、(神との全一の本来の心から)分離していたいという気持ちが伴っている。そのレベルでなら、あなたは確かに何とかすることができる。
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   あなたは心の彷徨(ほうこう・さまようこと)にあまりにも寛容であり、自分の心が誤った創造をするのを消極的に容認している。具体的な結果は重要ではないが、根源的な誤りは重要である。訂正は常に同じである。何かをすることを選ぶ前に、あなたの選択が私の選択と調和するものであるかどうかを私に尋ねなさい。調和しているという確信があれば、恐れはなくなるだろう。
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   恐れとは常に、あなたが望むことと行なうことが葛藤する時に生じる緊張のしるしである。この状況は二つの形で生じる。第一は、矛盾した複数の事柄を同時あるいは順に行なうという選択ができる場合である。これは矛盾した行動を生み出す。これはあなたにとって耐え難いことでだ。なぜなら心の中の別のことをしたいという部分が激怒するからである。
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   第二は、自分がそうすべきだと思い行動するが、完全にそうしたいと思わずに行なうという場合である。これは一貫性ある行動を生み出すが、必然的に多大の緊張をもたらす。どちらの場合にも心と行動が調和しておらず、その結果、あなたは心底やりたいと思っていないことを行なうという状況がもたらされる。これは強要されているという感覚を掻き立て、その感覚がたいていは激しい怒りを生み出す。
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   そしてその後には(あなた自身の)投影が続く可能性が高い。恐れがある時は常に、その理由はあなたがまだ、心を決めていないからである。あなたの心のみが、恐れを生み出すことができる。恐れが生み出されるのは、心が自ら望んでいるものについて葛藤している時であり、その時、望むことと行なうことの不一致により、必ず緊張が生じる。これは統一されたゴールを受け入れることによってのみ、訂正できる。
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   この誤りを取り消すための最初のステップは、葛藤とは恐れの表現の一つだとまずは知ることである。自分がどういうわけか愛さないことを選んだに違いない、そうでなければ恐れが生じることはあり得なかった、と自分に言いなさい。

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心(意識)の力
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   誰もが恐れを経験する。だが、ほんのわずかな正しい思考さえあれば、なぜ恐れが生じるのかを理解することができる。心が持つ本当の力の真価を味わい知る者はわずかしかおらず、それを完全に自覚し続けている者は一人もいない。しかしあなたが恐れを免れたければ、いくつか理解すべきことがあり、しかもそれらは充分に理解されなければならない。
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   心は非常に強力であり、その創造的活力を決して失うことはない。決して眠ることもない。どの瞬間にも心は創造している。想念と信念が組み合わさり、文字通り山をも動かせるほどの力が、一気に湧き上がるということを認識するのは難しい。自分自身にこのような力があると信じることは、一見、傲慢に思える。しかしこのことが、あなたがそれを信じない本当の理由なのではない。
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   あなたは自分の想念には真の影響力がない、と信じるほうを好んでいる。というのも、実はあなたが自分の想念を恐れているからである。そう信じることで罪悪感の自覚は弱まるかもしれないが、それは心を無力なものとして知覚するという代償を払った上でのことだ。
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   自分の考えることが何の結果ももたらさないと信じるなら、あなたはそれを恐れなくなるかもしれないが、それに敬意を払うことはほとんどあり得ない。無為な想念というものはない。すべての思考は何らかのレベルで形を生み出す。
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マスター イエスのメッセージ

自分を愛するようにしか人を愛せない

  • 2019.10.25 Friday
  • 00:04

 

 


   「癒す」とは、幸せにすることである。私はこれまであなたに、自分自身を喜ばせる機会がどれくらいあったか、またその内のどれほど多くを自分で拒んできたか考えてみるようにと言ったことがある。これはあなたが、自分自身を癒すことを拒否してきたと告げているのと同じである。
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   あなたに属している光は、喜びの光である。輝きは悲しみとは結びつかない。喜びは、それを分かち合いたいという統合された意欲を呼び起こし、一つのものとして応答しようとする心の自然な衝動を促す。
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   自分が心底から喜びに満ちていないまま癒そうとする者たちは、同時に別の種類の応答を呼び起こすことになり、それによって、全一な心で応答する喜びを人々から奪ってしまう。
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   全一な心で居るには、あなたは幸せでなければならない。もし恐れと愛が共存できず、完全に恐れながら生き続けることはできないのであれば、全一な状態として可能なのは、愛の状態だけである。愛と喜びとの間には何の相違もない。したがって唯一可能な全一な状態とは、完全に喜びに満ちた状態だけである。よって癒すこと、すなわち喜ばせるということは、統合し一つにすることと同じである。
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   どこに居るどの兄弟の善意ある想念だろうと、その一つひとつにより、あなたは祝福されている。あなたも感謝の気持ちから、彼らに祝福を返したいと思うべきである。あなたが彼らを個人的に知っている必要はなく、彼らもまたあなたを個人的に知っている必要もない。その光はあまりに強力なので、一なる子の隅々にまで輝く。
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   神の子どもは、自分を愛するようにしか、隣人を愛することはできない。それゆえにヒーラー(治癒者)の祈りは次のようになる。「私が自分自身を知る通りに、この兄弟を知ることができますように」。
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   癒しとは一つの想念であり、それにより二つの心が自分たちの一体性を知覚して喜ぶようになる。この喜びが内なるあらゆる部分に呼びかけて共に喜ぶように促し、内なる神を迎え入れて彼らの間を進ませる。癒された心だけが永続的効果のある啓示を体験できる。なぜなら啓示とは、純粋な喜びの体験だからである。あなたがその喜びを体験することを選択しないとすれば、その在り方を自分のものにすることはできない。
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   霊は「所有すること」と「在ること」との相違を知らない、ということを思い出しなさい。なぜなら高次の心は、霊が従う法則に従って考えるので、神の法則だけを尊ぶ。霊にとっては、得るということは無意味であり、与えることがすべてである。霊は一切を所有しているので、与えることによって一切を保ち、それによって神が創造した通りに創造する。
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   この種の思考は、何らかの物を所有することに関してはまったく該当しないが、想念との関連においてならば、低次の心にもよく理解できる。物理的な所有物を分かち合うなら、あなたは確かにその所有物を分割することになる。けれども何らかの考えを分かち合うなら、それを減らすことにはならない。その全部を与えてしまっても、依然としてその全部があなたのものである。
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   さらに、もしあなたがそれを与えた相手が、それを自分のものとして受け入れるなら、彼はあなたの心の中でそれを強化することになり、それによってそれを増大させる。もしあなたがこの世界は想念からなる世界だという概念を受け入れることができるなら、与えることと失うこととの間に自我が設けている誤った関連性を信じる信念体系が消え去る。
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   私たちは、再び目覚めるためのプロセスを、いくつかの簡明な概念で始めることにしよう。「想念は与えられることで増大する」「それらは信じる者が多ければ多いほど強化される」「あらゆるものは、何らかの考えである」「そうであれば、与えることがどうして失うことに関連付けられるだろう」
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   贖罪の原理と(神からの)分離は同時に始まった。自我が作り出された時、その心の中に神は喜びへの「呼びかけ」を置いた。この呼びかけは非常に強力なので、自我はいつでもそれを聞くだけで溶け去ってしまうほどである。これが、あなたが自分の中にある二つの声のうち、一つを聞くことを選ばなければならない理由である。
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   一方はあなたが自分で作り出したもの(自我)であり、それは神からのものではない。しかしもう一方は、神からあなたに与えられたものであり、それに耳を傾けることだけを神はあなたに求めている。聖霊はまさに文字通りの意味で、あなたの中に存在している。聖霊の声はあなたが本来居た場所に戻るようにと、あなたに呼びかける声である。
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   この世界にいたとしても、その声だけを聴き、他の声は聞かないということは可能である。それには努力と、学ぼうとする強い意欲とが必要である。それが、私が学んだ最後のレッスンであった。そして(私を含め)神の子たちはみな、子として対等であるのと同じく、学ぶ者としても対等である。
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   あなたの(本質)は神の国そのものであるが、闇の信念を自分の中に入り込ませてしまったので、新しい光を必要としている。神の光である聖霊は輝きであり、あなたはその輝きによって闇という考えを放逐してもらわねばならない。その輝きの前では(神からの)解離は崩れ去り、神の国がそれ自体の中に現れ出る。
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   分離以前には、あなたは導きを必要としてはいなかった。かつてあなたは、いずれ再び知る時と同じように知っていたが、今のあなたはそのようには知っていない。
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   神は導くことはしない。神にできるのは、完璧な智識を共有することだけだからである。導きとは評価するものである。なぜならそれは正しい方法と間違った方法があり、その一方は選ぶべきものであり、他方は避けるべきものであることを示唆するからである。一方を選ぶことで、あなたはもう一方を放棄する。
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   聖霊を選ぶことは神を選ぶことである。神は文字通りの意味であなたの中に存在するのではない。あなたは神の一部である。あなたが神から離れることを選んだ時(いわゆる分離という堕落の時)、神はもはや妨げなしにあなたと智識を共有できなくなったため、神を代弁して語る声をあなたに与えた。あなたが(自我という)別の声を作り出したので、こうして神との直接のコミュニケーションが断たれてしまった。
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マスター イエスのメッセージ

      

「非難」「攻撃」「断罪」という罪悪感の投影

  • 2019.10.23 Wednesday
  • 00:00

   


   畏怖の念は啓示のみに取っておかれるべきである。畏怖の状態は崇拝的であり、より低い序列の者が創造主の前に立つことを示唆している。あなたは完全無欠の被造物であり、完全無欠なるものを創造した創造主の臨在の前でのみ畏怖を経験すべきである。対等な者たちは互いに対して畏怖を感じるべきではない。畏怖の念は対等でないことを示唆するからである。したがってそれは、私に対しては不適切な反応である。
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   あなたの兄はより多くの経験をして来たので尊敬を受ける資格があり、より多くの叡智があるので、服従を求める資格がある。彼はまた兄弟であるから愛される資格もあり、もし彼が献身的であるなら、献身を受ける資格もある。あなたからの献身を受ける資格を私にもたらすのは、私自身の献身のみである。
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   私に身についていることで、あなたにも達成できないことは何もない。私がもっているもので、神から生じていないものは何もない。今の私とあなたの違いは、私にはそれ以外何もないという点である。このことが、あなたにおいては未だ可能性でしかない状態に、私を置いている。
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   「私によらなければ誰も、父のもとに至る者はいない」とは、私が何らかの形であなたとは違って特別で、あるいは異なるという意味ではない。時間の中ではそういう意味になるが、時間は実際には存在しない。この言葉は横軸よりも縦軸の観点で捉えたほうが意味がある。
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   あなたは私の下に立ち、私は神の下に立つ。「上昇する」過程において、私はあなたよりも高い位置に居るが、その理由は神と人との距離はあまりにも大き過ぎて、あなただけでは超えていけない。私は一方ではあなたの兄として、もう一方では神に創造された一神の子としてその距離を埋める。兄弟たちへの私の献身が、その立場に私を置いた。
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   「天地は過ぎゆく」とは、天と地が分離した状態として存在し続けることはないという意味である。
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   「我らを試みに会わせず」とは、自らの誤りを認めなさい。そして私の導きに従うことによって、誤りを捨て去ることを選びなさいという意味である。
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   あなたは自分が知覚するものに応答し、自分で知覚する通りに行動する。黄金律は「すべて人からして欲しいと思うことは、人にもそのようにしなさい」とあなたに求めている。ということは、どちらの者についての知覚(認識)も正確でなければならないという意味になる。
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   黄金律は適切な行為のための規則である。あなたは正しく知覚しない限り、適切に行動することはできない。あなたとあなたの隣人は一つの家族の対等な構成員であるのだから、あなたは両者を知覚する通りに両者に対して行なうことになる。あなたは(本来の)自分自身の聖性を知覚し、そこから他の人の聖性を見なければならない。
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   恐れにより生じた空虚さは、必ず「赦し」に置き換えられる。それが「死はない」ということの意味であり、私が(霊は死なず)死は存在しないことを実証できた理由でもある。律法を解釈し直すことによって成就するために、私は来た。律法そのものは正しく理解されたなら、保護だけを提供する。
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   律法の中に「地獄の業火」という概念を持ち込んだのは、まだ心を変えていなかった者たちの行なったことである。
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   十字架刑のメッセージは、次の通り、明白である。
   「愛だけを教えなさい。それがあなたの本質だからである」。
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   十字架刑についてこれ以外の解釈をするなら、あなたはそれを、その本来の意図である平安への呼びかけとしてではなく、猛攻を加えるための武器として用いている。使徒たちはしばしばそれを誤解したが、その理由は、他の誰もが誤解する理由と同じである。
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   彼ら自身の不完全な愛により、彼らは(自分の思いを)投影し易くなっていた。つまり、彼ら自身が恐れていたために、神の報復の武器としての「神の怒り」というものを語ることになった。彼らは十字架刑についても、まったく怒りを持たずに語ることができなかった。なぜなら、彼ら自身の罪悪の感覚が、彼らを怒らせたからである。
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   これは新約聖書の上下が転倒したいくつかの例である。しかし本当は、その福音は愛のメッセージ以外の何ものでもない。使徒たちが罪悪感を感じていなかったなら、彼らは、「(私は)平和のためではなく、剣を投じるために来た」と私が語ったと引用することはなかったはずである。これは明らかに、私が教えたすべてのことの正反対である。
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   また彼らが本当に私を理解していたなら、ユダに対する私の反応を、あのように描写しなかったはずである。私が裏切りを信じていたのでない限り、私が「おまえは接吻をもって人の子を裏切るのか」と言ったはずがない。私がそのようなことを信じていなかったということが、十字架が伝えているメッセージのすべてである。
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   私がユダの上に呼び起こしたと言われている「処罰」も、同様の間違いである。ユダは私の(血の繋がった実の)兄弟であり、私自身と同じように一なる子の一部をなす神の子であった。罪の宣告は不可能だと実証する用意のできていた私が、彼に罪を宣告しようとすることが、あり得ただろうか。
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   使徒たちの教えを読む時には、当時はまだ彼らが私に完全に従う準備ができていなかったために、後に解るようになることが沢山あると、私自身が彼らに語ったことを思い出しなさい。私はあなたを一つの思考体系に向かって導いているが、あなたはその思考体系の中にどのような恐れも入り込ませずにいてほしい。
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   私が求めているのは殉教者ではなく、教師である。誰も罪のゆえに罰せられることはなく、神の子は罪人ではない。どのような処罰の概念にも非難の投影が伴い、それにより、非難は正当化できるという考えが強化される。その結果もたらされるのは、非難についてのレッスンである。なぜならすべての行ないは、その動機となっている信念(が何であるか)を教えるからである。
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   よって十字架刑は明らかに、相互に対立する思考体系がもたらしたものであった。それは内なる自我と神との間にある「葛藤」のように見えるものの完璧な象徴である。この葛藤は、今も同じく実在するかに見えており、そのレッスンは当時と同じく今も、習得されなければならないものである。
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               マスター イエスのメッセージ


 

なぜ傷つくのか

  • 2019.10.21 Monday
  • 00:01


 

   もしあなたが神を代弁する声(メッセージ)を聞くことができないとしたら、それはあなたが聞くことを選ばないからである。あなたが確かに自分の自我の声に耳を傾けているということは、あなたの態度や気持ちや行動が実証している。だが、これはあなたが望んでいるものである。これが、あなたが保持しようとして戦い、救おうとして警戒しているものである。
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   自我が自らの顔を見ようとして覗き込む鏡は、確かにおぼろげである。あなたの心は自我の顔を立てようとする企みに満ちている。鏡を使う以外に、どのようにして自らが自分を存在させるという芸当を続けられるだろう。しかしあなた自身を見つけ出すためにどこを探すかは、あなた次第である。
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   行動を変えることで心は変えられないと、私は述べた。しかし私はまた、あなたは確かに心を変えることができるとも述べ、それを何度も繰り返し語った。あなたが誤って選んだということを、あなた自身の気分が教えている時、つまりあなたが喜びに溢れていない時は常に、誤って選んだということだが、その時には、「そうである必要はないと知りなさい」。
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   どの場合も、あなたは神が創造した兄弟の誰かについて誤って考えたのであり、あなたの自我がおぼろげな鏡の中に創り出す映像を知覚しているのである。神ならば考えなかったことで、あなたが考えたことは何か、そして神があなたに考えさせようとすることで、あなたが考えなかったことは何かを、正直に考えてみなさい。そのようにして、あなたが行なったことや、行なわないままにしたことを誠実に調べてみなさい。
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   そして、内なる神の心と共に考えるために、あなたの心を変えなさい。これを行なうのは難しく見えるかもしれないが、それに抵抗して考えようとするよりもずっと易しいことである。あなたの心は神の心と一つである。このことを否定して、別のことを考えたことによって、あなたの自我はなんとか保たれてきたが、あなたの心は文字通り分裂してしまった。
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   愛情深い兄として、私はあなたの心について深く気にかけており、あなたが自分自身と自分の兄弟たちを見るときに私の手本に倣うように、そして、あなた自身と彼らの両方の中に、神の創造した栄光ある被造物を見るようにと、私はあなたに促す。
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   あなたが悲しんでいる時、「こうである必要はないと知りなさい」。憂うつとは、欲しいのに手に入らない何かが自分から奪い取られている、という感覚から生じるものである。あなたは、自分自身の決断によらなければ、何も奪い取られはしないことを思い出し、それとは違う決断をしなさい。
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   あなたが不安であるとき、不安感は自我の気まぐれから生じると認識し、「こうである必要はないと知りなさい」。あなたは、自我の命令を守るのと同じくらい、それに対抗するためにも警戒することができる。
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   あなたが罪悪感を感じる時に思い出すべきは、自我は確かに神の法を犯してきたが、「あなた」は犯していないということである。自我の「罪」は私に預け任せなさい。そのために贖罪がある。しかしあなたの自我が傷つけた者たちについて、あなたが自分の心を変えるまでは、贖罪はあなたを解放できない。
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   あなたが罪悪感を感じている間は、あなたの自我が指揮権を握っている。なぜなら、自我のみが罪悪感を経験できるからである。よって、「こうである必要はないと知りなさい」。
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   あなたは自分の心をよく見つめて、自我の誘惑に注意していなさい。それに欺かれてはならない。それはあなたに何も与えてはくれない。このような自発的な霊の放棄をやめたとき、あなたは自らの心がいかにして集中力を発揮し、疲労を超越し、癒せることができるかがわかるだろう。だがあなたは、自分自身の自我から引き離せるほどに、自我の要求に対して充分な警戒をしていない。「こうである必要はない」

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   心が彷徨(さまよ)うのをあなたが積極的に拒むなら、神および神の被造物たちと共に居ることを選ぶ習慣は容易に身につけられる。これは集中力ではなく信念の問題である。この粗悪な信念があなたを引き戻すのを容認してはならない。
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   これまで自分自身を喜ばせる機会がどれほどたくさんあったか、またそれらの機会のうちどれほど多くを拒んできたか、あなたは本当によく考えてみたことがあるだろうか。本来、神の子の力に限界というものはないが、彼は自分で選んだ分だけ、自分の力の表出を制限することはできる。
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   あなたの心と私の心が一つになり、その光によってあなたの自我を追い払い、あなたが考えることと行なうことのすべての中に、神の強さを解き放つことができる。これ以下のことで満足してはならない。そしてあなたのゴールとして、これ以外のものを受け入れることを拒否しなさい。あなたは注意深く見張って、それらの信念から遠ざかりなさい。
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   あなたがこれを、どのくらいうまく行なえたか、あなた自身の気持ちによって判断しなさい。これが判断の唯一の正しい使用法である。

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   「真に助けになる者たちは傷つくことがない。なぜなら、彼らは自分の自我を守ろうとしないので、何者も彼らを傷つけようがないからである」。
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               マスター イエスのメッセージ

   


   
 

長い間信じられてきた数々の「誤解」

  • 2019.10.19 Saturday
  • 00:03

   
 


   キリストの最初の降臨とは、単に「創造」の別名に過ぎない。キリストとは「神の子」の意味である。キリストの再臨とは、自我の支配の終焉と心の癒し以上のものを意味してはいない。私は最初の降臨において、あなたが創造されたのと同じように創造された。
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   私は聖餐という儀式で、私の肉体を分かち合いたいとは思わない。なぜならそれは、無を分かち合うことだからである。私が至聖なる父の至聖なる(あなたという)子どもたちと、幻想を分かち合おうとするだろうか。だが私の心ならば、確かにあなたと分かち合いたいと思っている。
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   なぜなら私たちは(神の)一つの心に属しており、その心は私たちのものだからである。この心だけをあらゆる場所に見なさい。これだけがあらゆる所にあり、あらゆるものの中にあるからである。それがすべてである。それはそれ自身の中にすべての物事を包含している。これだけを知覚するあなたは幸いである。
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   ・・・未だに残る十字架刑にまつわる恐れを消し去るには、もう一点、完全に明らかにしておくべきことがある。数多くの誠実なキリスト教徒がこの点を誤解してきた。欠乏への信念に囚われていない者であれば、このような間違いを犯すことはあり得ない。
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   確かに転倒した観点から十字架刑を眺めるなら、あたかも神が、神の子の一人が善良であったという理由で受難することを容認し、それを推奨したかに見える。このとりわけ残念な解釈は(誰かの解釈による)投影から生じたものであるが、それにより数多くの者たちが神を激しく恐れるようになった。
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   このような反宗教的概念が、多くの宗教に入り込んでいる。だが真のキリスト信者ならここで立ち止まって、「いったい、このようなことが本当にあり得るだろうか?」と自問するはずである。神自身の言葉が、(このようなことは)神の子にふさわしくないと述べているようなことを、神自身が考えたりするだろうか?
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   最良の防衛は常に、相手の立場を攻撃することではなく、真理を擁護することである。判断基準の枠組み全体を逆転させなければ正当化できないような概念であれば、それを受け入れるのは賢明ではない。このようなやり方は小規模に適用された場合は苦痛を伴い、大規模な場合にはまぎれもなく悲劇的となる。
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   迫害というものは、神自身が救済のために(一人の)神の子を虐(しいた)げたというような、恐ろしく誤った知覚を「正当化」しようとする結果になることが多い。このような言葉自体が無意味である。
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   これを克服することがこれまでとりわけ難しかった理由は、その誤り自体は他の誤りよりも訂正が難しいわけではないが、多くの人々が、そこに防衛として傑出した価値があると見て、それを手放したがらなかったからである。
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   もう少し穏やかな例をあげれば、親が子どもを打擲(ちょうちゃく・打ち据え)ながら、「こうする時、お前よりも私のほうがもっと辛いのだ」と言うことで、それが免責されるように感じるというものである。私たちの父なる神が本当にこのような考え方をすると、あなたには信じられるのだろうか?
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   このような考え方のすべてが一掃されることが極めて重要なので、私たちはこの種の考えがあなたの心の中に、微塵も残らないようにしておかなければならない。それはいかなる形のものであれ、この種の歪曲に冒されるなら、贖罪が教えている完全に柔和なレッスンは失われてしまう。
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   「主は言われる。復讐するのは私である」という言葉も誤った知覚(解釈)の一つであり、それによって人は自分自身の「邪悪な」過去を神のものとしてしまう。「邪悪な」過去は神とは何の関係もない。神はそれを創造しなかった。またそれを維持することもない。神は懲罰など信じていない。
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   神の心がそのように創造することはない。神はあなたの「邪悪な」行為を理由に、あなたを責めたりはしない。ましてや神があなたの「邪悪な」行為を理由に、私を責めるだろうか? このような前提がいかに全く不可能であるか、そしてそれがいかに全面的に(誰かの解釈の)投影から生じたものであるかを、必ずしっかりと認識するようにしなさい。
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   この種の誤りが、神がアダムを拒絶して、彼を楽園から追放したという信念や、その他の関連する多数の誤りの原因となっている。これはまた、私があなたを間違った方向へ導いていると、あなたが時々信じるかもしれない理由でもある。私は歪曲することがほとんど不可能な言葉を使うように極力努めて来たが、あなたがそう望むなら象徴を曲解することはいつでも可能である。
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   犠牲とはまったく神の知らざる考えである。それは恐れからのみ生じるものであり、恐れる者たちは狂暴になり得る。いかなる形であれ犠牲を払うことは、「あなた方の父が慈悲深いように、あなた方も慈悲深くありなさい」という私の指示に背くことである。そして多くのキリスト教徒にとって、これが自分自身に当てはまると悟ることは難しいことであった。
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   良き教師というものは、自分の教え子たちを決して威嚇(いかく)しない。威嚇することは攻撃であり、それにより教師が教えていることが拒否されてしまう。その結果、学びは失敗に終わる。
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   私は「世の罪を除く神の子羊」と呼ばれることがあるが、「子羊」を血にまみれたものとして描写する者たちは、この象徴の意味がわかっていない。正しく理解されたならそれは「無垢性」を語る象徴である。共に横たわるライオンと子羊が象徴する強さと無垢(むく)さは矛盾せず、自然に平和に生きるということである。
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   「幸いなるかな心の清き者、その人は神を見る」も、同じことの別な言い方である。清い心は真理を知っており、それがその心の強さである。清い心は破壊を無垢性と混同しない。なぜなら無垢性から、弱さではなく強さを連想するからである。
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   無垢性には何も犠牲にすることはできない。それは無垢なる心は一切を有しており、その全一性を保護することだけに励むからである。それが(何らかの考えを)投影するということはあり得ない。そこにあるのはただ、他の心を敬うのみである。なぜなら敬意こそが、真に愛されている者たちから彼らと同様の者たちへの、自然な挨拶だからである。
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   無垢なる状態、すなわち恩寵の状態とは、贖罪の意味が完全に明らかな状態であるという意味において、子羊は世の罪を除くのである。贖罪にはまったく曖昧さはない。それは光の中にあるので完全に明確である。その理解を闇の中に隠そうとする試みだけが、見ることを選ばない者たちにとって、贖罪への理解を手の届かないものにしてきた。
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   無垢性とは叡智である。なぜなら無垢性は悪を自覚しておらず、悪は存在しないからである。しかし無垢性は、真実なるものすべてを完全に自覚している。(死の克服である)復活は、真理を破壊できるものは何もないということを実証した。善はいかなる形の悪にも屈せず永らえられる。それはちょうど光が闇のさまざまな形を廃するのと同じである。
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   したがって贖罪は完璧なレッスンである。それは私が教えた他のすべてのレッスンが真実であることの最終的な実証である。あなたは今この一つの普遍化を受け入れられるなら、もっと小さな多くのレッスンから学ぶ必要がなくなる。これを信じるなら、あなたはすべての誤りから解放される。
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   神の無垢性が、(あなたという)神の子の(本来の)心の真の状態である。この状態ではあなたの心は神を知っている。神は象徴的なものではなく、事実だからである。神の子のあるがままを知ることによって、あなたは「犠牲ではなく贖罪」が、神の祭壇に供えるにふさわしい唯一の贈り物だと悟る。
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   神の祭壇には完全無欠性以外の何も属さない。無垢なるものが理解していることは、真理である。だからこそ彼らの内なる祭壇は、真に輝いているのである。
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マスター イエスのメッセージ

「神の国」とは何か

  • 2019.10.17 Thursday
  • 00:01

 

 

 

  「神の国はあなた方の中にある」という言葉が、真に何を意味するかを理解することは難しい。その理由は、これは自我(という表面意識)には理解不能なことだからである。自我は外にある何かが中にあると解釈するが、これでは何の意味もなさない。「中に」という言葉は不要である。

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   「神の国」とは「あなた」のことである。あなた以外の何を創造主は創造しただろう。そして、あなた以外の何が「神の国」だろう。これが救いのメッセージのすべてであり、それはその全体において、その各部分の総和を超越したメッセージである。
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   あなたもまた、あなたの霊が創造した王国(という自分の世界)を持っている。自我の幻想を理由として、あなたの霊が創造するのをやめたことはない。あなたが孤児でないのと同じように、あなたのこれらの被造物たちも孤児ではない。
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   あなたの自我とあなたの霊は、決して共に創造するものとはならないが、あなたの霊とあなたの創造主は常に共に創造する。だからあなたの被造物たちは、あなた自身と同じく安全だという確信を持ちなさい。
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   (内なる)神の国は完全に統一され、完全に守られているがゆえに、自我はそれに決して勝つことができない。
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   これが祈りの形で書かれているのは、誘惑の瞬間に役立つからだ。これは独立宣言である。これを充分に理解するなら、大いに助けになることがわかるだろう。
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   あなたに私の助けが必要な理由は、あなたが自分自身の(内なる)導き手を拒否したからであり、よって導きを必要としているからである。私の役割は、真実を偽りから引き離し、それにより真理が自我の築き上げた防壁を突破し、あなたの心の中で輝くことができるようにすることである。私たちの団結した強さに、自我は打ち克つことはできない。
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   肉体の欲望の起源は物理的なものではない。自我は肉体を自らの家と見なし、肉体を通して自らを満足させようとする。しかしそれが可能だという考えは、心による決断であり、心(という意識)は何が本当に可能なのかについて完全に混乱を来たしている。
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   霊は自我を攻撃しない。ただ、そのようなものをまったく想像できないだけである。自我(という表面意識)も同様に霊に気づいていないが、何か自分よりも偉大なものに自分が拒絶されていると知覚はしている。それゆえに、自我の言う「自尊心」は妄想的なものとならざるを得ない。
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霊は救われる必要がない
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   神の被造物(神の子)たちが神話を創造することはない。ただしその試みが神話作りに向けられることはあり得る。しかし、それはただ一つの条件下でのみ可能だ。すなわち、それが作り出すものはもはや創造的ではないという条件である。神話とは完全に知覚によるものであり、形態においては実に曖昧で、その特徴として「善」対「悪」を本質とするので、最も情け深い神話でさえ、恐ろしい含蓄を含まないものはない。
.
   神話と魔術は親密に結びついている。というのも、神話とはたいてい自我の起源に関するものであり、魔術は自我が自分のものと見做している力に関連しているからだ。神話体系は一般に、「天地創造」について何らかの記述を含み、これをそれ特有の魔術の形態に結び付けている。
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   いわゆる「生存のための戦い」とは、自我による自己保存のための苦闘に過ぎず、自我の始まりについての自我による解釈に他ならない。この始まりは通常、物理的な生誕と結びつけられる。なぜならそれ以前の時点で、自我が存在していたと主張することは難しいからだ。
.
   より「宗教的な」自我志向の者は、魂はそれ以前にも存在し、自我としての人生という短期的な逸脱に陥った後も、存在し続けると信じるかもしれない。なかにはこの逸脱のせいで魂は罰せられるとさえ信じる者もいる。
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   けれども、救済は霊には当てはまらない。霊は危険にさらされてはおらず、本来救助される必要はないのである。
.
   救いとは「正しい心の状態」以上のものではない。「正しい心の状態」とは聖霊の「一なる心の状態」ではないが、「一なる心の状態」が回復される前に達成されなければならないものだ。正しい心の状態は自動的にその次の段階に行き着く。なぜなら正しい知覚は一様に攻撃性のないものであり、したがって誤った心の状態は跡形もなく消え去るからである。
.
   自我は裁きなしには生き残れず、裁きがなくなれば退けられる。その後は心が進み得る方向はただ一つである。その方向は常に自動的に定まる。なぜなら心は、自らが信奉する思考体系から指示を受けざるを得ないからである。
.
   知覚を訂正することは単なる一時的な方策に過ぎないという点は、何度強調してもし過ぎることはない。それが必要である唯一の理由は、誤った知覚は智識に対する障壁である一方、正確な知覚は智識に至るための飛び石となるからである。そもそも正しい知覚の価値は、それがいずれ必ず、すべての知覚が不要だという理解に達するという点にある。これが誤った知覚が行なう障壁をすっかり取り除く。
.
   この世に生きているように思える間に、どうしてそのようなことが可能なのかと、あなたは尋ねるかもしれない。それはもっともな質問である。しかし、あなたはよく注意してそれを理解しなければならない。この世に生きている「あなた」とは誰だろうか。
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   霊は不滅であり、不滅性とは恒常的な状態である。それは過去において常に真実であり、これからも常に真実であるのと同様に、今も真実である。なぜならそれ(霊)はまったく変化というものを含まないからである。それは連続体ではなく、反対のものと比較されることで理解されるものでもない。(真の)智識は決して比較を伴わない。それが心が把握できる他のすべてのものと智識との主要な相違点である。
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マスター イエスのメッセージ


 

「最後の審判」の意味

  • 2019.10.15 Tuesday
  • 00:32

 

 

 

   あなたが魔術と奇跡の混同を訂正できる方法の一つは、自分で自分を創造しなかったことを思い出すことである。自己中心的になる時、あなたはこのことを忘れがちであり、それにより魔術を信じることが事実上避けられない位置に自らを置く。
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   あなたが持っている創造する意志は創造主によってあなたに授けられた。そして創造主は自らの創造においても同じ意志を表現していた。創造能力は心の中に存在するので、あなたが創造するすべてのものは必然的に意志の問題である。
.
   また、そこから導き出される帰結は、あなたが自分一人でつくり出すものは何であれ、神の心の中では実在しないが、あなた自身の視覚においては実在するということだ。この基本的区別が、そのまま「最後の審判」の真の意味へとつながっていく。
.
   (信じられているように)「最後の審判」とは、あなたの思考の中で最も脅威をもたらす考えの一つである。これはあなたがそれを理解していないからである。審判すなわち裁くことは、神の属性の一つではない。それが存在するようになったのは(人間の心が創造主から)分離した後であり、その時点で全体的な計画の中に内蔵された多くの学習手段の一つとなった。
.
   (神からの)分離が何百万年もの期間にわたって起きたのと同様に、(人間の信念による)「最後の審判」も同様に長い期間、あるいはそれよりもさらに長い期間にわたる(残る)ものになるだろうう。ただしその期間は、奇跡によって大いに短縮できる。奇跡は時間を廃することはしないが、短縮するための道具である。
.
   充分な人数が真に奇跡志向の心(意識)になったならば、このプロセスは計り知れないほど短縮される。しかしそのためには、あなたが速やかに自分自身を恐れから自由にすることが非常に重要である。なぜなら、もしあなたが人々の心に平安をもたらそうとするのなら、まずあなた自身が葛藤から脱出する必要があるからだ。
.
   「最後の審判」は一般的に、神によって実行される措置だと考えられている。実際にはそれは、私からの助けを得て、私の兄弟たちによって実行される。しかし実際には、処罰が当然の報いだとあなたがどれほど考えようとも、「最後の審判」とは処罰を割り当てることではなく、むしろ最後の癒しである。
.
   処罰は、正しい心の状態とは全面的に対立する概念である。そして「最後の審判」の目指すところは、あなたに正しい心の状態を回復させることにある。
.
   「最後の審判」は正しい評価のプロセスと呼ぶことができる。これは単に誰もが最終的には、何に価値があり、何に価値がないかを理解するようになるという意味に過ぎない。その後は、選択の能力は理性的に方向づけられるようになる。しかしこの区別が為されるまでは、自由な意志と幽閉された意志との間で揺れ動き続ける以外にない。
.
   自由への最初のステップは、真実から偽りを選り分けることを伴う。これは建設的な意味での分離のプロセスであり、黙示録における「世の終わりの日」の真の意味を表している。
.
   究極的には誰もが、自分の(創造した)被造物たちを見渡して、良きもののみを保存することを選ぶ。これはちょうど神自らが創造したものを見渡して、それを良しとしたのと同じである。
.
   この時点で(意識という)心は、自らの被造物たちをその真価ゆえに、愛を持って見始めることができる。同時に心は、自ら誤って創造したをものを必然的に放棄する。つまり、それを信じられなくなれば、そうしたものはそれ以上存在しなくなる。
.
   「最後の審判」という表現が恐れを抱かせる理由は、それが神に投影されてきたからだけではなく、「最後」という言葉が死を連想させるからでもある。これは上下が転倒した知覚の顕著な実例である。「最後の審判」の意味が客観的に検討されたならば、それが本当は生命への扉であることは極めて明らかである。
.
   恐れの中に生きる者は誰も本当に生きてはいない。あなたは自分自身の最後の審判を自分に向けることはできない。あなたは自分自身による被造物ではないからである。しかしあなたは自分が創り出したすべてのものに対し、いつでも有意義に適用できるし、創造的な良きものだけを自分の記憶に留めておくことができる。
.
   これが、あなたの正しい心の状態が命じずにはいられないことである。時間の目的はただ一つ、この審判を達成するために「あなたに猶予を与えること」だけである。それはあなた自身による、完全無欠な被造物たちについての完全無欠な審判である。あなたが(心に)持ち続ける一切が愛に満ちたものであるとき、恐れがあなたのもとに留まる理由は何もない。
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マスター イエスのメッセージ


 

神が犠牲や生贄(いけにえ)を求めることはない

  • 2019.10.13 Sunday
  • 00:03

 

 

   罪悪感を感じていなかったなら、あなたが攻撃することはあり得ない。なぜなら咎(とが)めが攻撃の根源だからである。それは一つの心が別の心を、愛に値せず処罰されるべきものとして裁くことである。しかしここには分裂がある。というのも裁いている心は、裁かれている心から分離したものとして自らを知覚しているからであり、他者を処罰すれば自分は処罰を免れられると信じていることだからである。
.
   こうしたことのすべては、心が自らを否定しておきながら、否定の罰からは逃れようとする妄想的な試みに他ならない。それは否定をやめようとする試みではなく、それにしがみつこうとする試みである。なぜなら、あなたにとって神を曖昧模糊にしたのは罪悪感であり、あなたを狂気に駆り立てたのも罪悪感だからである。
.
   (あなたという)神の子の心の中に罪悪感が受け入れられたことが分離の始まりであり、贖罪を受け入れることが分離の終わりである。あなたが見ている世界は、罪悪感により狂ってしまった者たちによる妄想的体系である。この世界をよく見なさい。そうすればその通りだと解るだろう。なぜなら世界は処罰の象徴であり、そこを統治しているかに見える法則はすべて、死の法則だからである。
.
   子どもたちは痛みを通し、痛みの中でそこに生まれて来る。彼らの成長には苦しみが伴い、彼らは悲しみと分離と死について学んでいく。心は頭脳の中に閉じ込められているかのようであり、頭脳の働きは肉体が傷つけば衰えるかに見える。彼らは愛するかに見えるが、互いに見捨て、見捨てられる。
.
   彼らには自分の愛するものが(死によって)失われるように思えるが、これはおそらく、あらゆる信念の中でも最も狂った信念である。そして彼らの肉体は衰え、息も絶え、地に埋められ、もはや存在しなくなる。神を惨酷だと思ったことのない者は一人もいない。
.
   これがもし実相世界であったなら、神はまさしく惨酷である。(あなたが信じてきたように)救済の代価としてわが子をこのような目に合わせる父が、愛ある(もの)存在であるはずがないからである。

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神は救済と引き換えに生贄(いけにえ)を必要とはしない
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   神は救うために(誰かや何かを生贄にして)殺したりはしない。もしそのようなことがあったとすれば、攻撃が救済だということになるが、これは神による解釈ではなく、自我による解釈である。罪悪の世界こそがこのようなことを要求でき、罪悪感を抱く者だけがそのようなことを思い描けるからである。
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   アダムが自分を楽園から追放したのは神だと信じなかったなら、彼の「罪」は誰にも影響することもなかっただろう。そして、彼のその信念の中で神である父についての智識が失われた。なぜなら自分の父である神を理解しない者だけが、そのようなことを信じられるからである。
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   この世界はまさに、神の子の十字架刑を絵に描いたようなものである。そして、(一人の)神の子が(他人の罪を背負って)十字架にかけられることはあり得ないと悟るまでは、これがあなたが見る世界である。そして神の子は有罪ではないという、永遠の事実を受け入れるまでは、あなたがこのことを悟ることはない。
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   神の子はただ愛だけを与えてきたのだから、ただ愛だけを受けるに値する。彼は咎めたことがないので、咎められることはあり得ない。贖罪は彼が学ばなければならない最後のレッスンである。なぜならそれは、一度も罪を犯したことのない彼に救済は不要だと教えるからである。
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   あなたが自分自身に目を向け、自分が行なうことを正直に判断するならば、どうして自分が無罪であり得るだろうと訝(いぶか)りたくなるかもしれない。だが次のように考えなさい。あなたが無罪だというのは、時間の中ではなく、永遠においてのことである。あなたは過去において罪を犯したが、過去は存在しない。常なるものには方向がない。
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   時間は一つの方向に進むかに見えるが、あなたがその終着点に達した時には、あなたの背後の過去に沿って長々と敷かれていた絨毯のように、全てはくるくると巻き取られて消えてしまう。神の子が有罪だと信じている限り、あなたはこの絨毯の上を、行き着く先は死だと信じながら歩き続ける。そしてその旅は惨酷で無意味なものに思えるだろう。実際、その通りだからである。
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マスター イエスのメッセージ


 

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