「非難」「攻撃」「断罪」という罪悪感の投影

  • 2019.10.23 Wednesday
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   畏怖の念は啓示のみに取っておかれるべきである。畏怖の状態は崇拝的であり、より低い序列の者が創造主の前に立つことを示唆している。あなたは完全無欠の被造物であり、完全無欠なるものを創造した創造主の臨在の前でのみ畏怖を経験すべきである。対等な者たちは互いに対して畏怖を感じるべきではない。畏怖の念は対等でないことを示唆するからである。したがってそれは、私に対しては不適切な反応である。
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   あなたの兄はより多くの経験をして来たので尊敬を受ける資格があり、より多くの叡智があるので、服従を求める資格がある。彼はまた兄弟であるから愛される資格もあり、もし彼が献身的であるなら、献身を受ける資格もある。あなたからの献身を受ける資格を私にもたらすのは、私自身の献身のみである。
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   私に身についていることで、あなたにも達成できないことは何もない。私がもっているもので、神から生じていないものは何もない。今の私とあなたの違いは、私にはそれ以外何もないという点である。このことが、あなたにおいては未だ可能性でしかない状態に、私を置いている。
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   「私によらなければ誰も、父のもとに至る者はいない」とは、私が何らかの形であなたとは違って特別で、あるいは異なるという意味ではない。時間の中ではそういう意味になるが、時間は実際には存在しない。この言葉は横軸よりも縦軸の観点で捉えたほうが意味がある。
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   あなたは私の下に立ち、私は神の下に立つ。「上昇する」過程において、私はあなたよりも高い位置に居るが、その理由は神と人との距離はあまりにも大き過ぎて、あなただけでは超えていけない。私は一方ではあなたの兄として、もう一方では神に創造された一神の子としてその距離を埋める。兄弟たちへの私の献身が、その立場に私を置いた。
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   「天地は過ぎゆく」とは、天と地が分離した状態として存在し続けることはないという意味である。
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   「我らを試みに会わせず」とは、自らの誤りを認めなさい。そして私の導きに従うことによって、誤りを捨て去ることを選びなさいという意味である。
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   あなたは自分が知覚するものに応答し、自分で知覚する通りに行動する。黄金律は「すべて人からして欲しいと思うことは、人にもそのようにしなさい」とあなたに求めている。ということは、どちらの者についての知覚(認識)も正確でなければならないという意味になる。
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   黄金律は適切な行為のための規則である。あなたは正しく知覚しない限り、適切に行動することはできない。あなたとあなたの隣人は一つの家族の対等な構成員であるのだから、あなたは両者を知覚する通りに両者に対して行なうことになる。あなたは(本来の)自分自身の聖性を知覚し、そこから他の人の聖性を見なければならない。
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   恐れにより生じた空虚さは、必ず「赦し」に置き換えられる。それが「死はない」ということの意味であり、私が(霊は死なず)死は存在しないことを実証できた理由でもある。律法を解釈し直すことによって成就するために、私は来た。律法そのものは正しく理解されたなら、保護だけを提供する。
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   律法の中に「地獄の業火」という概念を持ち込んだのは、まだ心を変えていなかった者たちの行なったことである。
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   十字架刑のメッセージは、次の通り、明白である。
   「愛だけを教えなさい。それがあなたの本質だからである」。
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   十字架刑についてこれ以外の解釈をするなら、あなたはそれを、その本来の意図である平安への呼びかけとしてではなく、猛攻を加えるための武器として用いている。使徒たちはしばしばそれを誤解したが、その理由は、他の誰もが誤解する理由と同じである。
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   彼ら自身の不完全な愛により、彼らは(自分の思いを)投影し易くなっていた。つまり、彼ら自身が恐れていたために、神の報復の武器としての「神の怒り」というものを語ることになった。彼らは十字架刑についても、まったく怒りを持たずに語ることができなかった。なぜなら、彼ら自身の罪悪の感覚が、彼らを怒らせたからである。
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   これは新約聖書の上下が転倒したいくつかの例である。しかし本当は、その福音は愛のメッセージ以外の何ものでもない。使徒たちが罪悪感を感じていなかったなら、彼らは、「(私は)平和のためではなく、剣を投じるために来た」と私が語ったと引用することはなかったはずである。これは明らかに、私が教えたすべてのことの正反対である。
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   また彼らが本当に私を理解していたなら、ユダに対する私の反応を、あのように描写しなかったはずである。私が裏切りを信じていたのでない限り、私が「おまえは接吻をもって人の子を裏切るのか」と言ったはずがない。私がそのようなことを信じていなかったということが、十字架が伝えているメッセージのすべてである。
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   私がユダの上に呼び起こしたと言われている「処罰」も、同様の間違いである。ユダは私の(血の繋がった実の)兄弟であり、私自身と同じように一なる子の一部をなす神の子であった。罪の宣告は不可能だと実証する用意のできていた私が、彼に罪を宣告しようとすることが、あり得ただろうか。
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   使徒たちの教えを読む時には、当時はまだ彼らが私に完全に従う準備ができていなかったために、後に解るようになることが沢山あると、私自身が彼らに語ったことを思い出しなさい。私はあなたを一つの思考体系に向かって導いているが、あなたはその思考体系の中にどのような恐れも入り込ませずにいてほしい。
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   私が求めているのは殉教者ではなく、教師である。誰も罪のゆえに罰せられることはなく、神の子は罪人ではない。どのような処罰の概念にも非難の投影が伴い、それにより、非難は正当化できるという考えが強化される。その結果もたらされるのは、非難についてのレッスンである。なぜならすべての行ないは、その動機となっている信念(が何であるか)を教えるからである。
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   よって十字架刑は明らかに、相互に対立する思考体系がもたらしたものであった。それは内なる自我と神との間にある「葛藤」のように見えるものの完璧な象徴である。この葛藤は、今も同じく実在するかに見えており、そのレッスンは当時と同じく今も、習得されなければならないものである。
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               マスター イエスのメッセージ


 

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