長い間信じられてきた数々の「誤解」

  • 2019.10.19 Saturday
  • 00:03

   
 


   キリストの最初の降臨とは、単に「創造」の別名に過ぎない。キリストとは「神の子」の意味である。キリストの再臨とは、自我の支配の終焉と心の癒し以上のものを意味してはいない。私は最初の降臨において、あなたが創造されたのと同じように創造された。
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   私は聖餐という儀式で、私の肉体を分かち合いたいとは思わない。なぜならそれは、無を分かち合うことだからである。私が至聖なる父の至聖なる(あなたという)子どもたちと、幻想を分かち合おうとするだろうか。だが私の心ならば、確かにあなたと分かち合いたいと思っている。
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   なぜなら私たちは(神の)一つの心に属しており、その心は私たちのものだからである。この心だけをあらゆる場所に見なさい。これだけがあらゆる所にあり、あらゆるものの中にあるからである。それがすべてである。それはそれ自身の中にすべての物事を包含している。これだけを知覚するあなたは幸いである。
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   ・・・未だに残る十字架刑にまつわる恐れを消し去るには、もう一点、完全に明らかにしておくべきことがある。数多くの誠実なキリスト教徒がこの点を誤解してきた。欠乏への信念に囚われていない者であれば、このような間違いを犯すことはあり得ない。
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   確かに転倒した観点から十字架刑を眺めるなら、あたかも神が、神の子の一人が善良であったという理由で受難することを容認し、それを推奨したかに見える。このとりわけ残念な解釈は(誰かの解釈による)投影から生じたものであるが、それにより数多くの者たちが神を激しく恐れるようになった。
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   このような反宗教的概念が、多くの宗教に入り込んでいる。だが真のキリスト信者ならここで立ち止まって、「いったい、このようなことが本当にあり得るだろうか?」と自問するはずである。神自身の言葉が、(このようなことは)神の子にふさわしくないと述べているようなことを、神自身が考えたりするだろうか?
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   最良の防衛は常に、相手の立場を攻撃することではなく、真理を擁護することである。判断基準の枠組み全体を逆転させなければ正当化できないような概念であれば、それを受け入れるのは賢明ではない。このようなやり方は小規模に適用された場合は苦痛を伴い、大規模な場合にはまぎれもなく悲劇的となる。
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   迫害というものは、神自身が救済のために(一人の)神の子を虐(しいた)げたというような、恐ろしく誤った知覚を「正当化」しようとする結果になることが多い。このような言葉自体が無意味である。
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   これを克服することがこれまでとりわけ難しかった理由は、その誤り自体は他の誤りよりも訂正が難しいわけではないが、多くの人々が、そこに防衛として傑出した価値があると見て、それを手放したがらなかったからである。
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   もう少し穏やかな例をあげれば、親が子どもを打擲(ちょうちゃく・打ち据え)ながら、「こうする時、お前よりも私のほうがもっと辛いのだ」と言うことで、それが免責されるように感じるというものである。私たちの父なる神が本当にこのような考え方をすると、あなたには信じられるのだろうか?
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   このような考え方のすべてが一掃されることが極めて重要なので、私たちはこの種の考えがあなたの心の中に、微塵も残らないようにしておかなければならない。それはいかなる形のものであれ、この種の歪曲に冒されるなら、贖罪が教えている完全に柔和なレッスンは失われてしまう。
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   「主は言われる。復讐するのは私である」という言葉も誤った知覚(解釈)の一つであり、それによって人は自分自身の「邪悪な」過去を神のものとしてしまう。「邪悪な」過去は神とは何の関係もない。神はそれを創造しなかった。またそれを維持することもない。神は懲罰など信じていない。
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   神の心がそのように創造することはない。神はあなたの「邪悪な」行為を理由に、あなたを責めたりはしない。ましてや神があなたの「邪悪な」行為を理由に、私を責めるだろうか? このような前提がいかに全く不可能であるか、そしてそれがいかに全面的に(誰かの解釈の)投影から生じたものであるかを、必ずしっかりと認識するようにしなさい。
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   この種の誤りが、神がアダムを拒絶して、彼を楽園から追放したという信念や、その他の関連する多数の誤りの原因となっている。これはまた、私があなたを間違った方向へ導いていると、あなたが時々信じるかもしれない理由でもある。私は歪曲することがほとんど不可能な言葉を使うように極力努めて来たが、あなたがそう望むなら象徴を曲解することはいつでも可能である。
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   犠牲とはまったく神の知らざる考えである。それは恐れからのみ生じるものであり、恐れる者たちは狂暴になり得る。いかなる形であれ犠牲を払うことは、「あなた方の父が慈悲深いように、あなた方も慈悲深くありなさい」という私の指示に背くことである。そして多くのキリスト教徒にとって、これが自分自身に当てはまると悟ることは難しいことであった。
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   良き教師というものは、自分の教え子たちを決して威嚇(いかく)しない。威嚇することは攻撃であり、それにより教師が教えていることが拒否されてしまう。その結果、学びは失敗に終わる。
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   私は「世の罪を除く神の子羊」と呼ばれることがあるが、「子羊」を血にまみれたものとして描写する者たちは、この象徴の意味がわかっていない。正しく理解されたならそれは「無垢性」を語る象徴である。共に横たわるライオンと子羊が象徴する強さと無垢(むく)さは矛盾せず、自然に平和に生きるということである。
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   「幸いなるかな心の清き者、その人は神を見る」も、同じことの別な言い方である。清い心は真理を知っており、それがその心の強さである。清い心は破壊を無垢性と混同しない。なぜなら無垢性から、弱さではなく強さを連想するからである。
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   無垢性には何も犠牲にすることはできない。それは無垢なる心は一切を有しており、その全一性を保護することだけに励むからである。それが(何らかの考えを)投影するということはあり得ない。そこにあるのはただ、他の心を敬うのみである。なぜなら敬意こそが、真に愛されている者たちから彼らと同様の者たちへの、自然な挨拶だからである。
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   無垢なる状態、すなわち恩寵の状態とは、贖罪の意味が完全に明らかな状態であるという意味において、子羊は世の罪を除くのである。贖罪にはまったく曖昧さはない。それは光の中にあるので完全に明確である。その理解を闇の中に隠そうとする試みだけが、見ることを選ばない者たちにとって、贖罪への理解を手の届かないものにしてきた。
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   無垢性とは叡智である。なぜなら無垢性は悪を自覚しておらず、悪は存在しないからである。しかし無垢性は、真実なるものすべてを完全に自覚している。(死の克服である)復活は、真理を破壊できるものは何もないということを実証した。善はいかなる形の悪にも屈せず永らえられる。それはちょうど光が闇のさまざまな形を廃するのと同じである。
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   したがって贖罪は完璧なレッスンである。それは私が教えた他のすべてのレッスンが真実であることの最終的な実証である。あなたは今この一つの普遍化を受け入れられるなら、もっと小さな多くのレッスンから学ぶ必要がなくなる。これを信じるなら、あなたはすべての誤りから解放される。
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   神の無垢性が、(あなたという)神の子の(本来の)心の真の状態である。この状態ではあなたの心は神を知っている。神は象徴的なものではなく、事実だからである。神の子のあるがままを知ることによって、あなたは「犠牲ではなく贖罪」が、神の祭壇に供えるにふさわしい唯一の贈り物だと悟る。
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   神の祭壇には完全無欠性以外の何も属さない。無垢なるものが理解していることは、真理である。だからこそ彼らの内なる祭壇は、真に輝いているのである。
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マスター イエスのメッセージ

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