「最後の審判」の意味
- 2019.10.15 Tuesday
- 00:32
あなたが魔術と奇跡の混同を訂正できる方法の一つは、自分で自分を創造しなかったことを思い出すことである。自己中心的になる時、あなたはこのことを忘れがちであり、それにより魔術を信じることが事実上避けられない位置に自らを置く。
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あなたが持っている創造する意志は創造主によってあなたに授けられた。そして創造主は自らの創造においても同じ意志を表現していた。創造能力は心の中に存在するので、あなたが創造するすべてのものは必然的に意志の問題である。
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また、そこから導き出される帰結は、あなたが自分一人でつくり出すものは何であれ、神の心の中では実在しないが、あなた自身の視覚においては実在するということだ。この基本的区別が、そのまま「最後の審判」の真の意味へとつながっていく。
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(信じられているように)「最後の審判」とは、あなたの思考の中で最も脅威をもたらす考えの一つである。これはあなたがそれを理解していないからである。審判すなわち裁くことは、神の属性の一つではない。それが存在するようになったのは(人間の心が創造主から)分離した後であり、その時点で全体的な計画の中に内蔵された多くの学習手段の一つとなった。
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(神からの)分離が何百万年もの期間にわたって起きたのと同様に、(人間の信念による)「最後の審判」も同様に長い期間、あるいはそれよりもさらに長い期間にわたる(残る)ものになるだろうう。ただしその期間は、奇跡によって大いに短縮できる。奇跡は時間を廃することはしないが、短縮するための道具である。
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充分な人数が真に奇跡志向の心(意識)になったならば、このプロセスは計り知れないほど短縮される。しかしそのためには、あなたが速やかに自分自身を恐れから自由にすることが非常に重要である。なぜなら、もしあなたが人々の心に平安をもたらそうとするのなら、まずあなた自身が葛藤から脱出する必要があるからだ。
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「最後の審判」は一般的に、神によって実行される措置だと考えられている。実際にはそれは、私からの助けを得て、私の兄弟たちによって実行される。しかし実際には、処罰が当然の報いだとあなたがどれほど考えようとも、「最後の審判」とは処罰を割り当てることではなく、むしろ最後の癒しである。
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処罰は、正しい心の状態とは全面的に対立する概念である。そして「最後の審判」の目指すところは、あなたに正しい心の状態を回復させることにある。
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「最後の審判」は正しい評価のプロセスと呼ぶことができる。これは単に誰もが最終的には、何に価値があり、何に価値がないかを理解するようになるという意味に過ぎない。その後は、選択の能力は理性的に方向づけられるようになる。しかしこの区別が為されるまでは、自由な意志と幽閉された意志との間で揺れ動き続ける以外にない。
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自由への最初のステップは、真実から偽りを選り分けることを伴う。これは建設的な意味での分離のプロセスであり、黙示録における「世の終わりの日」の真の意味を表している。
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究極的には誰もが、自分の(創造した)被造物たちを見渡して、良きもののみを保存することを選ぶ。これはちょうど神自らが創造したものを見渡して、それを良しとしたのと同じである。
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この時点で(意識という)心は、自らの被造物たちをその真価ゆえに、愛を持って見始めることができる。同時に心は、自ら誤って創造したをものを必然的に放棄する。つまり、それを信じられなくなれば、そうしたものはそれ以上存在しなくなる。
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「最後の審判」という表現が恐れを抱かせる理由は、それが神に投影されてきたからだけではなく、「最後」という言葉が死を連想させるからでもある。これは上下が転倒した知覚の顕著な実例である。「最後の審判」の意味が客観的に検討されたならば、それが本当は生命への扉であることは極めて明らかである。
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恐れの中に生きる者は誰も本当に生きてはいない。あなたは自分自身の最後の審判を自分に向けることはできない。あなたは自分自身による被造物ではないからである。しかしあなたは自分が創り出したすべてのものに対し、いつでも有意義に適用できるし、創造的な良きものだけを自分の記憶に留めておくことができる。
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これが、あなたの正しい心の状態が命じずにはいられないことである。時間の目的はただ一つ、この審判を達成するために「あなたに猶予を与えること」だけである。それはあなた自身による、完全無欠な被造物たちについての完全無欠な審判である。あなたが(心に)持ち続ける一切が愛に満ちたものであるとき、恐れがあなたのもとに留まる理由は何もない。
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マスター イエスのメッセージ
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