神が犠牲や生贄(いけにえ)を求めることはない
- 2019.10.13 Sunday
- 00:03
罪悪感を感じていなかったなら、あなたが攻撃することはあり得ない。なぜなら咎(とが)めが攻撃の根源だからである。それは一つの心が別の心を、愛に値せず処罰されるべきものとして裁くことである。しかしここには分裂がある。というのも裁いている心は、裁かれている心から分離したものとして自らを知覚しているからであり、他者を処罰すれば自分は処罰を免れられると信じていることだからである。
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こうしたことのすべては、心が自らを否定しておきながら、否定の罰からは逃れようとする妄想的な試みに他ならない。それは否定をやめようとする試みではなく、それにしがみつこうとする試みである。なぜなら、あなたにとって神を曖昧模糊にしたのは罪悪感であり、あなたを狂気に駆り立てたのも罪悪感だからである。
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(あなたという)神の子の心の中に罪悪感が受け入れられたことが分離の始まりであり、贖罪を受け入れることが分離の終わりである。あなたが見ている世界は、罪悪感により狂ってしまった者たちによる妄想的体系である。この世界をよく見なさい。そうすればその通りだと解るだろう。なぜなら世界は処罰の象徴であり、そこを統治しているかに見える法則はすべて、死の法則だからである。
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子どもたちは痛みを通し、痛みの中でそこに生まれて来る。彼らの成長には苦しみが伴い、彼らは悲しみと分離と死について学んでいく。心は頭脳の中に閉じ込められているかのようであり、頭脳の働きは肉体が傷つけば衰えるかに見える。彼らは愛するかに見えるが、互いに見捨て、見捨てられる。
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彼らには自分の愛するものが(死によって)失われるように思えるが、これはおそらく、あらゆる信念の中でも最も狂った信念である。そして彼らの肉体は衰え、息も絶え、地に埋められ、もはや存在しなくなる。神を惨酷だと思ったことのない者は一人もいない。
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これがもし実相世界であったなら、神はまさしく惨酷である。(あなたが信じてきたように)救済の代価としてわが子をこのような目に合わせる父が、愛ある(もの)存在であるはずがないからである。
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神は救済と引き換えに生贄(いけにえ)を必要とはしない
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神は救うために(誰かや何かを生贄にして)殺したりはしない。もしそのようなことがあったとすれば、攻撃が救済だということになるが、これは神による解釈ではなく、自我による解釈である。罪悪の世界こそがこのようなことを要求でき、罪悪感を抱く者だけがそのようなことを思い描けるからである。
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アダムが自分を楽園から追放したのは神だと信じなかったなら、彼の「罪」は誰にも影響することもなかっただろう。そして、彼のその信念の中で神である父についての智識が失われた。なぜなら自分の父である神を理解しない者だけが、そのようなことを信じられるからである。
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この世界はまさに、神の子の十字架刑を絵に描いたようなものである。そして、(一人の)神の子が(他人の罪を背負って)十字架にかけられることはあり得ないと悟るまでは、これがあなたが見る世界である。そして神の子は有罪ではないという、永遠の事実を受け入れるまでは、あなたがこのことを悟ることはない。
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神の子はただ愛だけを与えてきたのだから、ただ愛だけを受けるに値する。彼は咎めたことがないので、咎められることはあり得ない。贖罪は彼が学ばなければならない最後のレッスンである。なぜならそれは、一度も罪を犯したことのない彼に救済は不要だと教えるからである。
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あなたが自分自身に目を向け、自分が行なうことを正直に判断するならば、どうして自分が無罪であり得るだろうと訝(いぶか)りたくなるかもしれない。だが次のように考えなさい。あなたが無罪だというのは、時間の中ではなく、永遠においてのことである。あなたは過去において罪を犯したが、過去は存在しない。常なるものには方向がない。
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時間は一つの方向に進むかに見えるが、あなたがその終着点に達した時には、あなたの背後の過去に沿って長々と敷かれていた絨毯のように、全てはくるくると巻き取られて消えてしまう。神の子が有罪だと信じている限り、あなたはこの絨毯の上を、行き着く先は死だと信じながら歩き続ける。そしてその旅は惨酷で無意味なものに思えるだろう。実際、その通りだからである。
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マスター イエスのメッセージ
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